人が快適さを覚える理由は様々
人が快適さを覚える理由はどのように様々かといえば、視覚・聴覚・触覚(皮膚感覚)・味覚・嗅覚、などのいわゆる五感に関わる快適さ。絵画、音楽、料理・食味、匂い・香り、舌ざわりなど色々。
それとともに人間の場合は、いわば機運、空気を察するとかの周囲の様々な気配に対する防備的な予感、あるいは共感といった折々の反応など、そうした時には五感に属さない想念に対しても反応し、抽象的な快不快を覚えもします。抽象的とはいえ、それが頭痛を起こさせるとか、胃痛を招く、発熱する、食欲不振に陥るとかの生理的な反応として不快になり、あるいは逆に快感を覚えさせるる事もあるようです。無視できない感覚的で固有のものかもしれない大事な我がまま、とでもいった「我が家には欠かせないこと」といった条件もあり得ます。」
人間の種々の感情にまつわるいわば気分は、快適さに関わります。
家族を外から取り囲む大枠の事柄、社会、自然環境にまつわる各種の「情報」や体験もまた、その場にいなくても人間の感情を揺さぶり、歓喜を叫ばせ、あるいは苦しめるという、これが娯楽かと思わせる波乱をもたらします。サッカーファンは、その時コートにいなくても勝敗のニュースを聞いただけで一喜一憂します。一部の勇ましいファンは、それで激情に駆られ、挙句の果てに暴れまわって警察のご厄介になるという悲運にも見舞われたりします。人間界が引き起こす自然の災厄は最大の不快さを呼び覚ますといえます。
こうした住まいにまつわる快適さの数ある条件の中で、暖房屋が示す快適さの目安といえば、範囲は狭く、熱にまつわる快適条件に終始します。しかもその結論は簡単で、ある条件の下に室温21℃であれば、ほとんどの人はその温度環境を改めて体感した後、「まあまあこんなところ」と、答えるでしょう。それが冷房であれば24〜26℃といったところ。皮膚感覚にまつわる冷暖房の快適さについての暖房屋の意見はそれ以上でも以下でもありません。
「建築とは総合芸術である」といいます。「芸術」という言葉を用いたが故の困難さへの予感。しかしそのことを目指す建築家や専門家は多く、しかも「総合芸術」と言わざるを得ないのは、先の快適さにまつわる様々な要素についての検討をすれば、もはやそう言うしかない、のでしょう。自分の住まいを考える人は、ひととき芸術家です。皮肉ではありません。住むことへの配慮、建築計画は素人といえど、ひととき芸術家に変身するしかないのです。困難だろうと自分の為です。専門家に頼りつつも、ぜひ実現したいと願わざるを得ません。
結果、きっと「楽しい」と実感することでしょう。専門的な準備・計画作業が多く、設計事務所など専門家に頼りつつ、しかし目指すべき「私の快適性」は、その思うところを専門家に伝え、具体的
にデザインしてもらう作業は、あるいは建築計画の中で最も楽しいプロセスを踏んでいます。
ですが古典芸術は必ずしも過去の価値観の限りない踏襲ばかりを意味しはしません。古典芸術かモダンアートか、といった対比はまり意味がないでしょう。両者は紛れもなく人によってつながっています。芸術性による快適さは人間から縁遠いものではありません。
五感にまつわる快適性について思うほどに、計画・意図が生きる根拠の神髄は、より快適に、より安全に、より経済的に、より永遠に続くこと、と、縄文人でも主張するはずの気持ちでしょう。いわんや現代人をや、です。
ただし現代人の場合、情報が多い分だけ迷うことが多く、あるいは一点に執着して先鋭な、アート的奇抜さに心を奪われることもあります。それも良し、と思い至れば許されます。それこそ表現の自由です。
雨露をしのぎ、夏は涼しく、冬暖かく、春秋は細工の要らない無防備なまでの、もっとも経済的なくつろぎが得られるお得な季節帯です。好むと好まざるを超え、生物すべては自然を受け入れて生きます。季節変化に対処する方法を身に付けながら、生命は進化してきました。根本的にはあまり変化していないとも言いうるくらい、趣味は広げても生きる条件は大差ない、とも言えます。地球上の歴史と呼べる時間軸以前の永い年月を、突然変異にも助けられ、生命は生き延びてきました。特に人間が快適さに敏感なのは贅沢だったからというには、縄文人様に失礼です。縄文人といえども、ホモサピエンスと比べればはるかに贅沢です。恵まれています。いわば強引に食物連鎖の頂点に立っていたようなものです。自然界に対するその態度を非礼と感じたのはクマたちではなく、人間の方です。五感以外に超自然を感得し、それを自覚し、想像し、さらに心的世界を構想した人たちです。それが紛れもない祖先ならばこそ、拝む必要もありません。まるで自分を拝むようなことになるからです。かつてとあるドイツ人哲学者が構想した超人の世界を思わせます。さらに視点を変換して現代哲学の命題を「素粒子」の行方を追跡する、純粋論理は「喰う寝る処に住む処」という命題から極限的に離れています。「住み心地」という感情的命題が、宇宙の果てではあまり期待できません。生きてるだけで幸せという、時にはありうる一瞬の安堵を永遠の真理とするような、生き仏の精神で生きるとは、ならばこの世は何だ、という人間のこれまでの営為を無にする宇宙人の論理、素朴な人間からはどう見ても幸せそうではない種族保存が唯一のテーマの地球外完全生物・エスリアンの世界が連想されます。
自分の家は泥臭くても一から考えるのが妥当です。何を期待するかといえば、「幸せ」です。
自然科学的にはまだまだ未知は多い、と科学者達は言います。仕事に時間的な未来があるとは、喜ぶべきことには相違ありません。謎、未知、神秘性の存在は何を意味するかといえば、人間の仕事量確保の将来性を保証するようなものです。
同時に、この二十二世紀、しかし知るべきデータは十分に揃い、出来ていないのはその整理整頓だ、ともいえます。断捨離はブームですが、情報・データにもそれが必要です。混乱があるとすれば、「まだ待って入れば新情報が集まる」という期待感がすべてを保留扱いにする故とも言えそうです。時には勇ましい人が出てきて、「再編」を企図して戦争を仕掛けてしまう事もあります。保存や構築より、ここでゼロ調整が必要だというワケです。
ですが、それこそ認識変更で済むことであり、人間や歴史を強引に組み替えてしまうのは、やはり狂気に属しそうです。それが部分的にでも必要か否かという問いすら、過去という名の時間は変えられず、それを具体的に意図することは不毛です。それこそ時間のムダというものです。
いずれにしろささやかな変更にも確かな基点が必要です。それが生活であり、幸福のイメージです。快適にありたいと願うのは、ごく自然なこと。自然保護の立場から、ならば冬は増えすぎたイノシノの毛皮をまとって生き抜こうというのも、否定されます。
可能なだけ費用を掛けてください。その内訳は、個人的に可能な最大限の費用と最大限の快適性の確保、を基点にした計画です。一間四方の方丈の庵でも快適な場合はあります。竪穴住居でも快適な場合はあります。
|