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短期で借りたアパートの屋根裏部屋の窓から眺めたパリの朝焼け。写真中央の光跡はシャルル・ドゴール空港から飛び立った旅客機。朝早くから次々と飛び立っていった。
そして、私が目を凝らしていたのは、建物のシルエットの屋上に見える煙突群。「やっぱり」、と思いました。生活の基本、「食う寝るところに住むところ」という観点から石の街をチラ見してみたかったのです。
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その象徴の一つが煙突。これらはかつての暖炉兼カマドなどの煙突であり、現在でも暖炉にこだわる人たちは市当局により必要な検査ののちに復活させた排煙口です。なぜ検査が必要かと言えば、単純に古いからであり、韓国などの古いオンドル同様、石造りの煙突は隙間から煙が漏れることがあり、一酸化炭素中毒の恐れがあるためです。階下の部屋から階上の他の部屋へととんでもない迷惑以上の危害を及ぼす可能性が石積み煙突にはあります。
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素焼きの植木鉢のような煙突群。形が一様でないのはそれぞれ時間を変えてリフォームした結果でしょうか。 |
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フランスまで来て素焼きの煙突群を眺めるのも無粋ですが、その数は世帯数、生活の形です。
どの建物にもあるいわゆる屋根裏部屋は、それぞれ元々はメイドさんなどの生活の場でした。
その一つをイタリア人から借りてひとときオン凸見物。 |
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立ち上がる煙突群をブロックとモルタルで固め、支えています。この雑な仕上がりもまた、パリ。
それぞれ高所なので危険作業でもあり、さすがの職人も腕を振るえなかった、と解釈します。
ただしここいらの建物はみんな2,300年経っているとか。石の街の耐久性。
右上に覗いている尖塔はノートルダム寺院(火災以前)で、竣工から670年ほど経っている。これはカトリック教会だが
大衆的な敬愛、より身近な存在としての聖母マリア信仰の教会でもある。その意味でフランスだけでも
「ノートルダム」を冠した教会は10以上あるそうです。 |
この寺院は見る角度によってはこの二つの写真以上によりバロック的な繊細な特徴が見られます |
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自然にそのままユトリロ風、と言ってみれば少しは無粋さが軽減されるかも。
パリの成立より約1000年、ここいらで都市生活者の営為が始まりました。
古い物を大事にするのがパリではなく、たまたま石造りだからリフォームを
繰り返すことができたようです。窓やその金具など細かいところを見ればすべてガタガタ。
ただしここでは時間の物差しが違うため、「味わい深い」ということになるのでしょう。 |
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果てしなく煙突群。それでも室内換気の効率はかなりひどいものでした。タバコを吸っても煙が消えません。
キッチンの換気ダクトとしても利用されていますが、ダクトは水平で曲がりが多く、気休め程度の換気設備。
都市生活者の耐えている現実的要素は多大で、しかしそれにも慣れて使いこなすのもまた、都市生活者。
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煙突群のあいだからノートルダム寺院が見えたりもして、不思議な気分。
都市生活が緊張に満ちたものになったのは、やはり産業革命以降でしょう。
この200年ほど。その半ばから日本もまた近代を生きだしていました
エネルギーの確保と生産技術の革新。市民革命。少しづつ自由に柔軟になる人間の発想。
この21世紀までつづくその思潮の自由さ。長い過渡期。ここパリでも「革命か反抗か」と、
サルトルやカミユが大論争。エリック・サティの音楽とる・コルビジュエの建物空間が同時に
提示されるという共感性も偶然ではありません。大きな流れ、シフトが起こったのは確かなこと。
なにか正解かはよく解りませんが、朝6時ころ、四方にある教会の鐘がランダムに鳴り出します。
混乱している限りは、この鐘の音を目安に生活にこそ励みなさい、神はそれでも祝福する、と、?
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テラスの手摺から半身を出して眼下を見下ろすとセーヌ川。鳩たちもまだ寝ぼけています。
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モンマルトルの丘から眺めたパリの屋根、そして煙突群。
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モンマルトルからデジカメのズームを一杯にするとエッフェル塔のシルエットが。
イギリス意匠の鉄骨トラス構造の産物。いまでは美術館となっているオルセー駅の
天井構造もまた100年前のもの。ちなみに美術作品の展示方法はルーブルから
時間の流れに従ってこのオルセーまで時系列で並んでいるそうで、ガイドさんが説明してくれました。
「美術館は勘弁してくれ」と悲鳴を上げる男に、ガイドさんは、「パリまで来て美術館に行かないの?
あきれた!!」と、大いに非文明人扱いされ非難を浴びました。それで強制連行されて見物しました。
館内は写真が自由というルールに感心しました。それでモナリザも見ましたが、ダ・ヴィンチが
終生この絵を手放さなかったという逸話を聞かされ、ひとときこの中世の科学者について、心理分析を試みました、というかボンヤリ想像していました。。
それで私の結論は、彼の性癖にかかわりなく、ダ・ヴィンチはこの絵の主人公に性別に関わりのない彼の想像する人間の姿を投影しようと、たびたびアプローチしていた、ということです。
いわば悟りきった人間の姿・表情とはいかなるものか、そのあり得べき実像は、と考えていただろうということです。歳と共に彼は死を恐れるというより、人間に未来はあるか、あるとすればその心持ちは?と、「謎の微笑み」ではなく、自存する余裕の笑みとは?、とでもいった表情を求めていたと思われます。もちろん彼の心境です。そのはるか以前に中国で孔子様が゛「道」を極めようと右往左往していたのと同じです。「朝に道を知れば夕べに死すとも可なり」といったところ。天才たちの考えそうなことです。人の内的世界の至上性について、彼らは夢想していたのです。分析おわり。
(アレルギー持ちの私には館内の空気汚染は最悪でした。特に狭いゴッホの部屋では涙と鼻水を垂らしながら逃げ道を必死で探していました。道を求めていたのです。パリの屋外の空気もなかなかキッタナイですよ。) |
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